「おくのほそ道」出羽路編 写真ギャラリー




■ ありがたや雪をかをらす南谷 芭蕉  (南谷)



■ 涼しさやほの三日月の羽黒山 芭蕉



■ 雲の峰幾つ崩れて月の山  芭蕉 (月山山頂から)


 



■ 語られぬ湯殿に濡らす袂(たもと)かな 芭蕉


近くて遠い芭蕉巡り
 

  山形に住んでいると、いつも芭蕉のポスターなどが目に付きます。特に私の生まれたところは、「奥の細道」にも登場する最上川三難所の一つ「碁点」の近くなのです。私が子供の頃はなかったのですが、今ではその碁点には碁点温泉や最上川舟下りの乗船場も出来ていて、沢山の観光客が奥の細道の一句を口ずさみながら訪れます。

  そんなわけで、私にとって奥の細道や芭蕉はとても身近な存在なのですが、実は芭蕉のことは学校やどこかで聞いただけの受け売りに過ぎず、浅学極まりないものだったのです。反省の意味も込めて、昨年、せめて芭蕉が歩いた山形県内の道だけでも辿ってみようと、カメラを持って奥の細道を巡る旅に出掛けてみました。

  奥の細道の旅は、私にとっては旅というにはあまりに近いものですが、新鮮さでは遠い外国を巡る旅に劣らないほどのものでした。さまざまな出会いや新発見がありましたが、中でも月山の旅は特に印象深いものとなりました。

  さすがに芭蕉のようにすべて歩いての登山というわけにはいきません。八合目までは車で楽に行くことができます。羽黒山からは車でも結構長い道のりでしたので、芭蕉が歩いて月山に登ったというのは驚くべきことで、本当に命がけの危険な行為であったことがわかります。芭蕉はそれほどまでして何を思い何を夢見て旅を続けたのでしょうか。思えば思うほど不思議な芭蕉の旅です。

  私が月山に登ったときは、天気予報では晴れでしたが、実際は濃霧そして風雨と大変な目に遭ってしまいました。月山山頂の月山神社に着いたときはもうすっかりずぶぬれでした。寒さに凍えた体を神社の入り口の休憩所で休んでいると、しばらくして雨もやみ、濃霧が瞬く間に吹き飛ばされ、湯殿山や庄内平野が見渡せるようになりました。まさに絶景です。
 思えば、初めて月山に登ったのは、居眠り運転をして崖から転落し、九死に一生を得た年でした。一度死んだものと思うと、死の山とも言われる月山に無性に登りたくなったのです。早朝暗いうちに出発して、これまでの人生を振り返りながら一歩一歩登りました。次第に夜が明け、朝日に輝く山々や雲の様子の美しさ。その時の情景を写 真に収めておけばよかったと、この時写真に興味を持ったのです。その日、カメラを持たなかったから特にそう思ったのかも知れません。と、まあそんなことがあって写真を撮り始めたので、月山は私の現在の原点なのです。

  月山から湯殿山への道を歩いていると、ある月山の研究者と出会いました。月山に昔からある登山小屋を研究しているとのことで、その日も奥の細道にも登場する鍛冶小屋や他の小屋を廻って小屋の手入れをしたり、お賽銭を集める代役をしたりしながらの調査のようです。その方が撮影したという写 真を後に見せていただきました。弥陀ヶ原を沢山の白装束姿の参拝者が延々と続いて登る様子を撮影したもので、滅多にお目にかかれないものです。3年も待ってようやく撮影した1枚だそうで、執念を感じさせます。いつか私も大型カメラで撮影したいと夢をいただきました。

            
 平成13年(2001年) 齋藤貞幸
 


芭蕉が歩いたところ以外の山形県内の写真も含めて掲載しています。

奥の細道 1

奥の細道 2

奥の細道 3

奥の細道 4

奥の細道 5

奥の細道 6

奥の細道 7



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